皆様、こんにちは。リストクラッチ式ショーイチでございます。
このコロナ禍により政情の不安が普段よりも目につく昨今ですが、これらは今に始まった事ではなく、日本に議会制民主主義が誕生したころからあるのです。
そんな歴史の長い、政治家の騒動の中で一際、おかしさと浅はかさが目立つ事件があります。
それが今回ご紹介する、名付けて国会キス事件、です。
この事件により時の大蔵大臣、泉山三六が辞任。衆議院議員も辞職するハメになり、さらには国会内で議員が酒気を帯びて本会議、委員会の出席を厳禁する旨、いわゆる議場内粛正に関する決議が可決する事態に陥りました。
(これより前に、総理大臣時代の若槻礼次郎は、日本酒を飲みながら答弁していた。)
占領下の日本に嘲笑を巻き起こしたであろう、珍事の経緯をする前にまずは、泉山三六の人となりを説明いたします。
泉山三六とは?
1896年3月30日。泉山は、山形県、大和村。現在の庄内町の豪農、太田直右衛門の三男として生まれ、後に青森県八戸の資産家、泉山家の養子になります。
子供のころは手のつけられない乱暴者だったようです。
後の姿を考えると、三つ子の魂百までとは、この事だろうな。と思います。
泉山はその後、第一高等学校、東京帝国大学政治学科を卒業し、三井銀行に入行し、ここで三井財閥の実力者で後の日銀総裁、池田成彬の目に留まり、着々とエリートコースを進んでいったのでした。
(この三井銀行での落ちこぼれダメ銀行員だったのが後の商工大臣で阪急グループ総帥、小林一三。一三は池田をあまりよく思ってなかったようだ。)
終戦後の1947年、泉山は銀行を退職し、衆院選に立候補し、見事当選。
翌年10月には当選1回の新人ながら、第2次吉田茂内閣の大蔵大臣として入閣を果たします。
この時、泉山は52歳。
人生はとんとん拍子に進んでいたのでした。
眠れるトラ大臣
順調に行ったのもここまででした。
それは、1947年、12月13日のことでした。
泉山は食堂にて他の議員らと会食中、酒をしこたま飲み、飲んでは飲み、飲んでは飲む。
すると、当然、酔っ払う。当然、周囲に絡み出す。
そして彼は、とうとうやってはならないことをしました。
なんと近くにいた、民主党の山下春江議員にキスを迫ります。
驚いた山下議員は、当然拒否。
すると、泉山は強引に、
「オレは君が好きなんだ!」と。
なんと、山下議員のアゴに噛み付いたのでした。
山下議員は驚きますが、落ち着きを取り戻し、噛み付く泉山に正拳、一発!!
調べたところ山下議員は、空手、柔道、薙刀術の心得があったのでこういう行動が取れたのでしょう。
拳を喰らった泉山は、その後議場脇のソファに酔い潰れました。
そんな大蔵大臣の醜態を見た、野党側は審議を一切拒否。
その後、さらに政府、与党の民主自由党立場を揺るがす情報が入ってきます。
なんと、泉山は廊下で別の党の議員である松尾トシ子議員の手を握り、30秒間も握り続けた。という情報が入りました。
これを聞いた野党側は懲罰動議を求めます。
これは、問題を起こした議員を一定期間登院停止、もしくは除名処分などの重い処分を下すための措置です。
この野党の動きに慌てた政府と与党は、泉山を叩き起こし、酔い覚ましのため、深夜の永田町をドライブしたり、医者に酔い覚ましの注射をさせるなど、出来る限りの事をします。
が、時既に遅し。野党の反発は大きく、困った吉田茂内閣は、明けて14日午前4時。
緊急閣議で泉山大蔵大臣の辞職を決定。
午後になり、とうとう泉山は責任を取り、議員辞職。
さらには、22日の本会議で議員の酒気帯び登院を禁止する議場内粛正に関する決議を全会一致で可決するなど大波乱を起こしたのでした。
泉山のその後
自身の失態により政治生命が絶たれたかに見えた、泉山ですがなんと事件直後から、この事件を面白がったメディアから酒に関するコメントや文章を求められ、却って自分の名を世間に轟かせることに成功し、1950年には参議院選挙に出馬し、見事当選。その後、12年に渡り、議員の職にあり続けたのでした。
議員引退後も、酒を飲み続け、1981年7月7日、85歳の天寿を全うしたのでした。
このように失敗した議員は、星の数ほどいますが、泉山の凄いところは自分の失態で世間の知名度を上げ、尚且つ人気になり、カムバックを果たしたことです。
ある意味、不撓不屈といったところでしょうか。
タレントに転身しても食っていけそうな気がします。
今回もご覧くださり、誠にありがとうございました。
これからもジンブツデンヤ珍事をご紹介して参ります。
お相手は、アンドレ・ザ・ジャイアント=ショーイチでした。
それでは次回もお楽しみに。
(寄稿)リストクラッチ式ショーイチ
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